ジョージ・スタイナー著『真の存在』

「証拠は事実をうんざりさせる。」   ジョルジュ・ブラック

「思索するさいには原緒的な混沌の中に降り立ち、そこでくつろぎを覚えねばならない」  ウィトゲンシュタイン


【訳者あとがき】より引用
スタイナーは本書の冒頭で、言語とは何か、そしてどのような働きをもっているのか、についての理解、意味や感情を伝達しようとする言葉の首尾一貫した説明は、神の存在を前提とすることによって支えられていると述べ、文学や造形美術や音楽を鑑賞するには必然的に神という「真の存在」を前提としなければならないと提言する。(中略)
こうしたスタイナーの考え方の根底には、芸術作品の理解と鑑賞には批評や学問的解釈などの「外面的調査」によっては到達できないものがあるという認識があるが、それは「声を出して台本を読むだけでさえどんな演劇批評よりも鋭い批評になる」とか「どんな音楽理論や音楽批評も演奏という名の意味の行為ほどに多くを語りかけることはない」という言葉に余すところなくあらわされている。(中略)こうした暗黙の談合に激しい嫌悪を覚えるスタイナーは、「『ハムレット』の真の意味について書かれた本、随想、記事、批評家や学者の討論集会への寄稿、博士論文などは一八七〇年代の後半以降、数にして約二万五千にのぼる」と吐き捨てるように言い、現代文学の分野だけでも、ロシアやヨーロッパの大学には一年に三万点の博士論文が提出されていると考えられると呆れ顔に述べたあとで、現代文学の研究なる概念そのものが、「シェイクスピアフロベールキーツについて何万人もの若い男女に何か新しいことが言える、という明らかに誤った前提によって毒されている」と断言してはばからない。(中略)スタイナーがいわゆる「科学的な見方」や言語の解剖を否定するのは、それらが人間の言葉の起源や、人間とは何かという問いかけのもつ人間らしさの中で言語活動が中心を占めている、ということを納得のいくように語ることができないと考えるからである。あるいは我々の詩の体験を説明することができないからだ。「その結果、科学的な見方は、そういう問いかけは無益だ、ないしこたえられない、したがって訊くべきでない、と必然的に主張するわけだが、これらの事実はきわめて重大である。そうした事実は、言語は純粋に相互関係的な差異の戯れだとする考え方と、話しことばにおける人間の生活は実用的なもの以外とは関係性のない様々な言語ゲームの一つだという概念は甚だしく妥当性を欠くものであることを示唆している。若干の流行遅れの非系統的、反理論的直観、または私なら憶測への欲求といいたいものの、再評価を懇請するのは正にこの非妥当性である」。(中略)彼は、テクストが通時的・共時的意味で音素、音声、文法、語彙などで構成され、こうした構成要素が多少なりと規則に統御された配列になっているかぎり分析的、統計的に研究することができるし、ある程度の理論を適用することの妥当性が生じる、としながらも、そうした研究法が意味の形式化を求め、音声、語彙、文法、等々から乖離して「意味論と美学の世界に一歩踏み込んだ途端、絶対に決定的な弱点が生じる」という。(中略)『悲劇の死』の第十章で、彼は、「それに、文芸批評は厳格さだの証明だのとは無縁だと私は信じている。正直な文芸批評とは、強烈な個人的体験によって他人を納得させようとすることである」(喜志哲雄役)と述べているが、こうした気迫に、出自からアウシュビッツの悲劇に目をすえつづけて現代を終焉の時代とか後書きの時代と認識する末世意識が色濃く翳を落として、独特の詩的な文体を織りなしているのがスタイナーの文章である。

ジョージ・スタイナー解説:http://noz.hp.infoseek.co.jp/EnglishLiterature/Steiner/