小林秀雄の発言と市丸ギン

江藤淳記号論理学に対しての発言。

小林:「(略)徂徠の言い方で言うと、言語学というもなはない。言語の道があるだけなのだ。道とは術のことだ。言語を使う術があるきりだ。言語の道は、芸であり術であるから、具体的な行為で、その人その人の気質なり肉体なりに深く関係しなければ働かないのだよ。そこで言語は歴史的現実に根を下ろしているということになる。宣長の古学にしろ、徂徠の古文辞学にしろ、これを西洋の近代文献学に当てはめて考えようとしても、発想的に違うところがあるから、無理なんです。(中略)ところで、この「考へる」という言葉の意味を、宣長は『玉勝間』の中で説明しているのですが、それによると「考ふ」という言葉は「むかふ」という意味なのだ。「む」は「身」です。「かふ」は「交ふ」です。(略)」

参考文献:『小林秀雄対談集ー歴史について』文芸春秋社

上記の発言に於いて小林は自国語(=日本語)を「自明」と言っており言語を対象化して研究するという科学的方法は徂徠、宣長が採らなかった方法で、その方が余程正しいと結論付けている。この事は福田恒存も何処かで大工にとっての鉋で説明していたと記憶する。詰り「鉋」の定義よりも使い方に関して上達した方が良いという事。

この後にちょっとだけベルクソンの話が出てくるが彼の伝記であるジャック・シュヴァリエ著『ベルクソンとの対話』(みすず書房)を想起すると分かり易い。本居宣長の学問的方法はある意味でベルクソンに酷似している。

どちらにしろ小林秀雄は大のベルクソン・ファン。小林秀雄全集に収録された『感想』もベルクソン論である。途中で行き詰ったが…。

なお「徂徠」とは勿論、荻生徂徠のことである。

参考文献としては『小林秀雄全集』、『福田恒存全集』、ベルクソンの各著作が適当。
特に小林は『本居宣長』と『感想』、福田は『私の國語教室』がよい。